17歳、23歳、53歳(私)、64歳、71歳のメンバーです。
14日深夜に港区を出発。15日の5時ごろ、気仙沼に到着。仮眠・朝食後、気仙沼の被災実態を視察しました。ヘドロもまだ残っています。解体されずに残された建物もまだ結構残っています。深刻ですね。上の写真は、小網浜(記憶が定かではありません)という港です。きれいです。この浜にも津波は押し寄せました。
今回はじめて気仙沼での活動です。10時に前林という仮設住宅に集合します。石巻救援センターの仲間と気仙沼で活動している方々と合流。
打ち合わせをまずおこないます。活動内容は、①救援物資のお届け。②要望の聞き取りと署名。③その後、無料バザー。
お届けした物資は、米、ニンジン、タマネギ、ジャガイモとトイレットペーパー、洗剤です。
署名は、被災者の医療費無料化の継続を求めるものです。要望の聞き取りでは、住宅問題が一番多かったですね。いつ、どのように住処を確保できるのか、情報はほとんど無いような実態でした。石巻よりもさらに深刻です。
その後、無料バザーが集会室でおこなわれます。気仙沼地域は、この間ほとんどボランティア活動ができてなくて、久々だったこともあり、衣料品も含めて物資がどんどん無くなっていきます。
小さな子どもがいましたので、色と形を合わせる遊びをかねた知能ゲームをしかけます。真剣にやってました。最初は間違ったりしますが、どんどん上達します。見ているこちらも楽しいですね。
このあと、7世帯の仮設住宅に移動して、お届け、聞き取りなどです。この仮設住宅は、今年9月で撤去されてしまうのです。民間の土地所有者と市が契約していますが、仮設住宅は、2年の契約です。その後は1年ごとに延長するのですが、契約自体が2年ですので、所有者から、契約を終了すると言われて撤去になるのです。
住民はたまったものではありません。要望の聞き取りでも、この問題がほとんどです。
「いったいどこに引っ越しをするのか、わかっていない」、「空いていれば、希望する仮設へ移動できる。と説明会では話していたのに、個別の折衝の時は、必ずしも希望通りには行かないと、二枚舌のような対応だ」、「民間アパートに引っ越した時でも、『見なし仮設』として認めて欲しい」等々の要望が出されました。報告書に記入して後日対応することになります。
活動を終えて、昼食をとりながら、感想を出しあいました。気仙沼の方からは、「『もう救援活動は必要ない』という声があったが、今日の活動を通じて、まだまだ救援活動は必要だと痛感した。石巻の活動スタイルがとても効率が良い。物資の届けと聞き取り、署名を一体で行える。その後のバザーも良い。このスタイルを気仙沼でも活用して、救援活動を再開したい」との熱意あふれる感想が出されました。この話が聞けて感動しました。
この日は、気仙沼から南三陸に出て、「防災センター」に立ち寄り、お線香をあげました。3.11の時「大津波が来ますから、すぐに避難してください」と呼びかけ続け、命を落とした「みきさん」。何度来ても心が締め付けられます。
その後登米市米谷の宿伯所に向かいます。前の日はほぼ徹夜状態ですから、夕食、ビール、焼酎とすすむと眠たくなります。9時には就寝。ぐったりと朝まで爆睡です。
16日は、石巻の糠塚仮設住宅で前日と同じ活動です。圧倒的に留守が多かったです。天気も良く、気温もかなり上昇したので外出した方が多かったのです。
昼食後、石巻救援センターで、米の小分け作業と救援物資のセット作業を行いました。
米は片手鍋を使って2㎏に分けていきます。流れ作業です。17歳と23歳の若い二人に米を2キロにわけてもらいます。それをテープでくくる作業、大きな袋に10個づつ入れる作業、など分担して作業を進めます。どんどん手際よくすすみます。人間とはすごいもので、なれてくると2キロぴったりに袋に入れていけるのです。
ニンジン、タマネギ、ジャガイモの野菜とTペーパー、洗剤を一つの袋にセットします。これが救援物資のお届けセットです。
翌日の世帯分をつくって作業終了。
私は、新幹線で帰京します。残った3人は、翌17日、糠塚前仮設住宅で活動となります。お彼岸の入りですから、お墓まいりの方が多かったそうです。バザーでは、子どもの数が多かったと報告されました。良かったですね。
登米市米谷宿伯所の管理責任者、佐藤さんのお宅から、大根、ジャガイモ、切り干し大根を大量にわけてもらい、港区で普及です。東北支援にもなりますし、若干の活動資金にもなります。その資金をさらにボランティアなどの活動に活かせます。
切り干し大根以外は、全部おわけできました。ホッとしています。